Atlantic / IDEAS “ひとを憎む”ひとたち

H. Armstrong Roberts

タイトル(原題):The People Who Hate People

日付:MAY 24, 2022

著者 :Jerusalem Demsas 

訳者 :Sungwon Kim

概要: Of all the objections NIMBYs raise to new housing and infrastructure, perhaps the most risible is that their community is already too crowded.

“NIMBY”(自分の街の新しい住宅建設やインフラ整備に反対する人たち)の主張の中で最も馬鹿げているのは「この街の人口はもういっぱいだ」というものだ。


世界にはいろいろな種の命題がある。その中でもたとえば「人の命は善である」といった問いは、答えがあまりに明白なため、誰もその理由の説明に余計な時間を割かない。「人間は、地球から”奪うもの”よりも、地球に”与えるもの”の方が多いはずだ。だからわたしたちはこの社会を、多くの人が素敵な人生を送れる場所にデザインすべきだ。」そんな命題、あるいは問いのことである。

ところが。こうした性善説的な思想は20世紀、特に「人口過多」(Overpopulation)を懸念する環境保護主義者たちから(時にはさりげなく、時にはあからさまに)攻撃されていた。歴史的には、人口増加を制限したり、あるいは人口抑制を政策指標に据えるような方針は棄却される流れが優勢であったが、それでも人口過多を主張する人々の思想の根底に横たわる「あんまり人口が増えると、この地球の少ない資源をみんなで奪い合うことになる。その前に誰か手を打たなければ・・・」という恐れは、アメリカの政治思想シーンからから消えることはなかった。いわゆる、”NIMBY”(※注  “Not In My Back Yard.“ うちの裏庭ではやめてくれ、の意。総論賛成各論反対、に近い。) の間でいまなお健在なのである。自分の街の新しい住宅建設やインフラ整備に反対する人たちの主張の中で最も馬鹿げているのは「この街の人口はもういっぱいだ」というものだ。中には人口増加を抑制するため、自治体の公的な住宅供給の制限を求める意見さえある。

最近開かれたカルフォルニア州のパロアルト市議会で、ある住民が地元の住宅建設政策に反対し、こんな発言を残した。「これ以上住人が増える街の計画を立ててなんの意味があるだろうか。地球上の人口が増えるということは、気候変動、生物多様性の喪失、メンタルヘルス、戦争、飢餓など、重大な影響ばかりを増やす。人類がその生態系のオーバーシュートに陥っているいま、人口を増やすのではなく減らすための計画を立てる方が理にかなっているのではないか・・・」

必ずと言っていいほど、こうした問題意識の矛先は決まって「自分たち」ではなく「他人」に向けられる。UCバークリー校の入学者数減少を求めた団体の責任者であるフィル・ボコボイ(Phil Bokovoy)氏は、バークリー校周辺の住宅増設に反対する理由に関するNew Yorker誌の取材に対し以下のように述べた。「世界規模で人口過多問題に取り組まなければ、気候変動の問題を解決することも、わたしたち個人の生活水準を向上させることも実現できないだろう。」

この手の言説、“カリフォルニア特有の脳の病”と、心配する人もいるかもしれない。ところが実際は、こうした「反人間(anti-human)」的な考え方は、全米だけでなく世界各地の言説に浸透していることを留意してほしい。一方で正確に把握すべきは、人口過多は少子化と並列されるような問題ではない。おそらく人口”減少”こそが今世紀の人口に関する真の関心事であるはずで、人口”増加”はその類ではない。仮に人口増加が本当に地球規模の問題であったとしても、NIMBYが支持する政策は、実際は気候変動に配慮した建設計画でなかったりと、むしろ気候変動との戦いをより難しくするものだったりする。

 

アメリカ国民に人口過多(Overpupulation)の懸念を抱かせるきっかけとなったのは、1968年に出版されたポール・エーリック(Paul Ehrilch)の著書”The Population Bomb”(邦題:「人口爆弾」1971年)だ。スタンフォード大学の生物学者であるエーリックは、”Zero Population Growth”(以下、ZPG)という団体の初代会長も務めている。歴史家のキース・ウッドハウス(Kieth Woodhouse)は著書”Ecocentrist” (未邦訳)の中で、「この団体の目標は人口増加を止めることだったのだが、とても残念で厄介なことに、そのための手段はなにも開発されていなかった」と語っている。しかしながら、1970年の設立から3年のうちにZPGには3万2,000人もの会員が存在していた。

“The Population Bomb”の冒頭は「デリーの悪臭漂う暑い夜」の描写から始まる。そこには残念ながら、高所得の欧米人がインドで過剰消費を楽しむような描写はない。著者が妻と娘を連れてタクシーに乗ったときに見た「混雑したスラム街」が描写されており、タクシーの窓から見える人々の生活ぶりを、嫌悪感に満ちた散文で詳述している。「食べるひとびと、洗うひとびと、寝るひとびと、行き交うひとびと、言い争うひとびと、叫ぶひとびと・・そしてタクシーの窓から手を突き出し物乞いをするひとびと......」。そして、描写は最後に極めて正直な告白に至る。「わたしたち..... 終始、怖かったです......」と。

エーリック一家がタクシーからデリー市民を眺めている瞬間の一人当たり炭素排出量は、インドの0.33トンに対してアメリカは18.66トン。平均すると、アメリカ人はインド人の約56倍もの炭素を排出していたことになる。環境問題への懸念から人口過多を警告する彼は、なぜ貧しい褐色の人々を著書の冒頭に描いたのか。本当に地球レベルでの資源の過剰消費(Overconsumption)を懸念していたのなら、描かれるべきは、彼の母国であるアメリカを特徴づける自動車中心の大量消費ライフスタイルではなかったか?

この本の主な主張は「増え続ける人口が地球の資源を使い果たす」というもの。また、「もし人口減少措置が取られなければ、資源の欠乏により世界が貧しくなる」というものだ。特にエーリックは、世界が食糧不足に陥ることを懸念し、20世紀末の数十年間に大規模な飢餓現象が起こることを予言した。

エーリックの予測は何度も何度も外れている。”The Population Bomb”が発表されて以来、飢餓と栄養不良は減少している。1969年にエーリックは「2000年にはイギリスは、”7,000万人の空腹の人で満ちた貧しい島々”に変わり、世界の50億人の住民たちから無関係な場所になっているだろう」という極端に悲観的な予測を提示し、さらには「2000年にはイギリスがこの世に存在しないことにお金をかけます」とさえ述べた。

 

ご存知の通り(少しでも歴史を勉強していればお分かりの通り)、その後もイギリスは立派に存在した。いまもなお存在している。この大胆に外れた予言の評価について「人口過多にヒステリックな研究者の間違い」と片付けるのはあまりに寛大すぎる。20世紀の左翼批評家たちは、ZPGの活動の正体を見抜いていた。1970年代に活動した新左翼活動家と”Democratic Society”を支持する学生たちは、ZPGと人口過多偏重主義者たちのことを痛烈に批判していた。先述の歴史家ウッドハウスによれば「”Democratic Society”はZPGの活動を無謀な単純化であると非難し、万人を一つの平らなカテゴリーで扱い、人間それぞれの違いや価値を無視するその思想を激しく批判した。」という。また、新左翼活動家たちは特にZPGのプロジェクトの根底にある人種差別的姿勢を批判したという。「ZPGは”世界には人が多すぎる(Too many people)” “特に非白人(Non-white)が多すぎる”と言っている。そのメッセージの背後には “非白人は恐ろしくて暴力的”という考えがあり、それが、必要であれば”強制的(Coercion)”に人口増加を止めなければならないという考えにつながっている。」と述べている。

この種の思想の負の遺産が、現代における外国人に排他的(Xenophobic)な移民排斥(anti-immigration)運動である。ジョン・タントン(John Tanton)が設立したアメリカ移民改革連盟 (FAIR:The Federation for American Immigration Reform )はこうした思想を背景に、厳格な移民規制の提唱を実施した。(※ この団体の冷酷さを知るには、彼らのウェブサイトをご覧ください。「不法滞在者を通報する方法」が紹介されています。)

タントンは1975年から1977年までZPGの会長を務めた。歴史家のセバスチャン・ノーマンディン(Sebastian Normandin)と哲学者のショーン・A・ヴァレス(Sean A. Valles)が、2015年の論文でFAIRの起源を以下のようにまとめている。「1978年にZPGが提案を承認、1979年にZPGの移民委員会の分派として始まった。」「1960年代に見られたエコロジー(Ecology)と新優生学(Neo-eugenics)の融合は、今日で特異で周縁的なものににえるが、この影響力は未だ根強い。」「今日の移民制限論者(immigration restrictionist)のネットワークは、自然保護論者(conservatioinist)と人口抑制活動家(population controc activist)のネットワークを母体にしていることが多い。」

タントンの移民排斥論は、人口過多への懸念と相性が良かっただけでなく、そもそも考えの発端が人口過多への懸念そのものだった。2019年にジェイソン・ライリー(Jason Riley)がWall Street Journal紙に書いたように、「タントンが移民に反対する理由は、”移民が合法か違法か”の軸にはなく、単に”人口爆発への反対手段”だから」であったという。

移民に反対することが、どんなことを意味するのかは明らかである。それは、地球を救う技術を持つ優秀な人々の数を減らすことになるということだ。ひいては、米国の能力低下を導くという事実だ。(2000年から2020年までのアメリカのノーベル賞受賞者のうち、化学、医学、物理学の分野での受賞者の37パーセントは移民出身である)。

人口が増えるということは、より多くの人がより多くのアイデアを生み出すということであり、また、さまざまな立場の人々の間で多くの交流が生まれるということだ。この2つの効果は、些細なことに聞こえるかもしれないが、実際に、より多くの良いアイデアを生み出す結果につながる。経済学者の加藤久和氏は2016年に「人口が多ければ多いほど、急速な技術進歩をもたらし得る多くのアイデアが生まれる 」と主張した。

人口過多懸念論者は、気候変動の問題解決に取り組む人々の能力を過小評価している。それだけでなく、そもそも資源も人間のニーズにも”限りはない”ということを理解していない。資源が「なくなる」という考え方は、人間の知恵が停滞したままであることを意味する。しかし、実際そんなことはない。ノーマン・E・ボーローグ(Norman E. Borlaug)は、”The Population Bomb” が出版されたわずか2年後の1970年、メキシコの栽培環境に適応した丈夫な小麦品種系統のドワーフ小麦(Dwarf Wheat)を開発し、メキシコの穀物自給を助けたとしてノーベル平和賞を受賞している。その後、彼はインドとパキスタンの農業にドワーフ小麦を導入し、「緑の革命(Green Revolution)」の父として知られるようになった。

何年か前にグレッグ・イースターブルック(Gregg Easterbrook)がThe Atlantic誌で述べたように、エーリックは1968年にインドが自給自足することなど”空想だ”と書いていた。しかし、”1974年までにインドはすべての穀物を自給できるように”なった。ボーローグ自身も人口増加を懸念していたが、反人間主義(aniti-humanist)を追求するのではなく、技術革新(technological innovation)に目を向け、数え切れないほどの命を救った。

経済学者のジュリアン・サイモン(Julian Simon)は、長年にわたって人口過多論者を批判してきたが、1980年から1990年にかけて5種類の金属の価格が下落することを、エーリックに約束した。ニューヨーク・タイムズ紙がサイモンの追悼記事で述べているように、エーリックは、「爆発的に増加する世界人口による原材料の需要の増加は、再生不可能な資源の供給を圧迫し、金属等の価格を上昇させる」と考えていたのである。サイモンはこの賭けに勝った。

 

もし、1970年代の人口過多論者が本当に環境を守りたかったのなら、エネルギー効率の高い高密度コミュニティの開発を推進すべきだった。

密度(density)が環境に良いという証拠は明らかであり、以前からそうであった。UCバークリー校の研究者が2014年の論文で論じたように、"人口密度の高い都市は、国内の他の地域よりも一人当たりの温室効果ガス排出量が少ない" 、"人口密度の高い大都市中心部に住む世帯の平均二酸化炭素排出量は、平均より50%ほど少なく、遠い郊外の世帯は最大で2倍 "である。

しかし、人のことを心配するひとたち(people worried about other people)は、この”密度を推進”するような活動をしてきた歴史はなく、むしろその逆であったとすら言える。

都市計画家(Urban planner)のグレッグ・モロー(Greg Morrow)が2013年の論文で詳述したように、人口過多論者の活動家は、都市の人口密度を低く保つことを目指し、郊外のスプロール化が悪化していくような法的枠組みを支持する活動を展開してきた。モローによれば、1970年代初頭、UCLAの教授で当時ロサンゼルスのZPG会長だったフレッド・エイブラハム(Fred Abraham)は「この街に住む人の数を減らす必要がある。大切なのは、生活の”量”ではなく”質”だ」「成長のモラトリアムを設け、過度な成長を止める必要性を認識しよう」と主張した。モローは、「こういった主張に実はシエラクラブ(L. Douglas DeNike)も同意し、"住宅地の制限は出生率を下げる一つのアプローチ "とし、"新しい住宅建設のためのゾーニング中止要請 "を推奨した」と付け加えている。

半世紀後の現在、人口過多を懸念する理由から新住宅建設に反対する”NIMBY”は、自分の家の前の通りや駐車場が混雑することを恐れていると主張する。ネガティブな未来を予告したい意味で、南北格差問題を引き合いに出す人もいる。UCバークリー校の反成長活動家(anti-growth activist)ボコヴォイはSlate誌のヘンリーグレーバー(Henry Grabar)とのインタビューで、このままカリフォルニア大学への学生の受け入れが増え続ければ、彼の地元は「バンコク、ジャカルタ、クアラルンプールのように(つまり、Global Southのように)なりかねない」と警告している。アラバマ州トラスビルでは、住宅保有者協会(the local homeowner’s association)の会長が、自分の住む地域の新しい開発に多世帯住宅を含めることに反対であることを表明し細かい主張をあらわにした。”これだけ人が増えれば、車も増える。私たちはこの地域に、広々とした土地、高い住宅価値が維持することを望んでおり、人口が増えて道路が混雑するようなことは望んでいないのです。” と。

私たち人間が、より少ない土地に多くの人が住めるように”アパートメント”という形態を開発したことは言うまでもない。バスや電車、自転車専用レーン、歩道もそう。万人に向けて効果的に駆動する発明たちはみな、そうやって発展してきた。

 

もしかすると読者のうち数名は、地球が直面している環境問題の解決にテクノロジーが役立つとは思っていないかもしれない。炭素排出量を削減するのに十分な技術があるとは思えないし、技術があったとしても政治システムがその普及を実現できると思えないからだ。でも、もしそうだとして。逆に、人口を数十億人減らすために何が必要なのかを少し考えてみてほしい。そのためには、人を殺すか、病人の延命を制限するか、新しい人を生まないようにするしかない。

先のアイディアのうち、三番目のアプローチは十分可能であり、単に人々に避妊具を提供することで達成できると考える人もいる。しかし、調査データによると、女性が実際に産む子どもの数は希望する数よりも少なく、避妊関連サービスを導入してたところで人口を5分の4まで減らすことはできない。

“NIMBY”と人口過多論者(Overpopulation alarmist)に共通しているのは、世界の人口はもうすでにいっぱいで、コミュニティといますでにそこに住んでいる人々のためのものであるという感覚、そして新しい人々(海外からの移民や、隣街からの移民)の存在は単なる負担である、というものだ。そういう感覚の上に、人口過多論者たちは想像上のネガティブな世界をつくりあげている。許容できないほどのホームレス率、大型交通インフラ整備で他国から遅れる街の発展、人口の肥大による個人間の”信頼”が低下している …. などの例を引き合いに出しながら。

「まず、”NIMBY”は単なる”まがり者”か”暇人”だという考えを捨てることが大事です。住宅や生活費の高騰という現代社会が直面する危機的状況の中で、”成長”(あるいは人口増加)に対するこうした消極的な態度は、実はリベラリズム(Liberalism)に深く根を下ろしたイデオロギーであり、リベラルな立場を主張する人に見られることもあるのです。その絡まった皮肉な背景ゆえに、リベラルを自認する人々の中でこの態度を根絶することが難しいということの意味が、少し想像できますでしょうか。」歴史家のジェイコブ・アンビンダー(Jacob Anbinder)はわたしにそう投げかけてくれた。

“資源は限られている”と主張し、時には非人道的な介入を見せる政治か。はたまた、真の社会的な豊かさを目指す政治か。その狭間の中で、何も難しいことはない。これは、人口懐疑論が乗り越えなければならないことなのは間違いない。他人への当てこすりはもういい。それでもなお、もし人口増加問題と心中したいと思うなら、どこまでもその主張を貫けばいい。やれるものなら。

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