祖母の記録

李鐘賛(祖父) | 李玉順(祖母)

タイトル(原題): —-

日付:Oct 3, 2024

著者 :Jeong Woo Lee | 李政雨  

訳者 : Sungwon Kim | 金聖源

概要:2024年9月29日 ソウルに住む祖母が亡くなった。熱烈な信仰心により、その生涯を祈りに捧げ人生の幕を閉じた李玉順(イ・オクスン)。彼女の一生を振り返る元新聞記者の叔父の文章を和訳しました。日本語も堪能だった祖母へ、翻訳を通した孫のわたしからの別辞。おばあちゃん、本当にありがとう。

*日本語解説が必要と思われる部分に解説を加えました


「1930年6月5日 5人兄妹の末娘として生み落とされ、小学2年時に支那事変(日中戦争)、4年に大東亜戦争(太平洋戦争)、中学2年で8・15解放(終戦または光復節)、高校1年で麗水・順天反乱、大学入学時に6・25動乱(朝鮮戦争勃発)、24歳にソウルで結婚。この数多くの戦争のなか、主イエスの手を繋ぐ基督教少女として山に、野原に、小屋に隠れ活動してきた若き日の記憶を感謝の念とともに振り返る 」

2003年5月 ある日の手記

*戦争の表現はハングル原文の表現を採用した。括弧内に、日本で慣例的に使用される語を付記。
*麗水・順天事件は大韓民国建国後の1948年、軍が共産勢力掃討を目的に韓国南部の反乱を鎮圧、それに伴い多くの民間人が命を落とした事件。

2024年9月29日 94歳で天に召されたわたしの母・이옥순(李玉順/イ・オクスン)勧士の日記からの一節である。

*勧士とは、韓国教会にて聖職者ではない女性信者の中で最も高い位を指す。

母は全羅北道は裡里(イリ。現在の益山/イクサン)にて、漢学を修めた祖父(母方)の娘に生まれ、裕福な成長期を過ごした。歳の離れた兄がお弁当屋を営み、当日稼いだお金はひとまず別室に投げ入れ夜になって勘定をするほど、経済的には豊かに暮らしたという。裡里女子高校を卒業し、梨花女子大学声楽科に入学したものの、その年に韓国戦争(朝鮮戦争)が起き学業を中断した。停戦直後、お見合いで出会った長身でハンサムな「記者ヤンバン」と結婚し、ソウルに移った。

*ヤンバン(両班)は王朝時代の官僚を指す語で、上流階級の意。

母が夢見ていたソウルの暮らしは容易いものではなかった。背が高く色白な慶尚道出身の祖母のもと、嫁入り暮らしが始まった。旧韓末期に正三品を務めた祖父の妻として「淑夫人」の名を与えられた過去をもつ祖母は、全羅道出身で商人の娘であるわたしの母を、地域差別的感情も込めて無視した。また敬虔な仏教徒だった祖母は、曹渓寺や開運寺などの名寺の法会へキリスト教徒である母を連れ回したという。

*旧韓末期は19世紀末、日本による併合前を指す。また、慶尚道と全羅道出身者は昔から犬猿の仲として知られる。

<大韓日報><新亜日報>などで経済部記者として働いた父は1960年代初頭に新聞社を去り、当時は「ボロ仕事」と呼ばれた繊維事業を開始する。事業が好調だったある時、父は中央情報部に捕まり厳しい拷問を受ける。韓国戦争の際に行方不明となった大叔父が、黄海道は海州(へジュ)にて共産党幹部として働いていると聞かされる。父の稼いだ事業収入は北から送られた工作金とみなされ、殴打を浴び拷問にかけられた。父は結局、稼いだ大半の財産を国家に献納するという覚書を交わし、釈放された。母はその日の痛みを次のように回想している。「血に染まったランニングシャツが地肌と接着して固まり、ハサミでそれを切り裂くほか脱がせることはできなかった」

父はその後、醸造事業にも手をつけたが苦戦の連続だった。母の苦労も続いた。母方の実家から事業資金を借り入れ、出資を募り共同事業を起こしたが、成果をあげられなかった。実家の兄妹や友人にお金を返すことができず信用を失い、借金返済の督促に追われるのが常だった。

1973年、祖母が亡くなり、母は自身の宗教を取り戻し教会に通い直した。20数年ぶりに取り返した信仰の衝撃により、しばらくのあいだ精神的な混乱と試練があったという。

*取り戻した信仰の衝撃により、幻覚を見るなどの日々が続いたという。

1983年11月、父が青年期に患った肺結核の後遺症により、わずか1ヶ月弱の闘病ののちこの世を去った。4女1男のうち、ふたりの姉は結婚し家を出ていた。母は信仰を頼りに、未婚のふたりの姉とわたしを、結婚させるまで育てた。

1990年、長男であるわたしが結婚し、母は共稼ぎのわたしたち夫婦に代わってふたりの子どもを育てた。

2006年2月、わたしの長女が中学校に入学すると、母はひとりで暮らすことを望んだ。「育児から解放され、わざわざ自由を求めたが、寂しくもあった」日記にそう綴った。

2022年、かつて治療を施した腰の痛みが再発した。日本に暮らす長女の姉はその度に日本と韓国を往来し、韓国の4人の姉弟は母の家で24時間交代で母を世話した。1年あまりをそう過ごし、教会管轄の養療院に移った。

2024年、お盆を前に日本からの姉夫婦に加え、ひ孫たちまですべての親族が集い母と食事を共にした。母は「幸福な時間をこれだけ享受し、神さまそろそろ迎えにきてください、そう祈らないと」そう残した。

その祈りの通り、日曜午前6時、2時間程度の苦しみの末、7時40分に母は息を引き取った。家族をはじめ、周囲の人びとの願いを常に切に求め続け生きた「祈りの人生」の幕が降りた。

母の祈りに宿る神秘性を信じ、その力強さを背景に生きてきたわたしは、神を信じるよりむしろ母を信じていたのかもしれない、そう感じさえします。

母の旅立つ道を心身共にご一緒してくださったすべての方々へ、こうして文面で感謝の挨拶と代えさせてください。顔を合わせご挨拶差し上げたいところですが、伏して御礼を表す心で本件ご案内しております。どうかご理解のほどよろしくお願い致します。

李政雨  拝

Next
Next

BBC / Radio4 “コミュナル・リビング”