なぜこの歳で”大学院”へ通うことにしたのか。
ソウルで生まれ、東京で育った。生後45日?の状態で飛行機に乗って。家の中で話される韓国語しか知らなかった小さなこどもが幼稚園へ入り、自然と日本語を覚え、第二言語だったはずの日本語が母語となり、家の中で両親はこどもへ韓国語で話しかけ、こどもは日本語で返答する、そんな状況のまま育ち、小学校生活を送り、音楽の時間には韓国の民謡”アリラン”をクラスの生徒に紹介した。ハングルの歌詞に初めて翻訳をつける作業を、両親が手伝ってくれたことを覚えている。中学に入り、いたずらに韓国の悪口を言う一つ年上の部活動の先輩に殴りかかった。高校に入り、部活動の試合中に「チョンボー」みたいなよくわからない罵声を浴びさせられたことがあった。それでも、恵まれた環境のおかげでなにか肉体的にも精神的にも大きな傷を負うことなく育ったぼくは、大学入学まもなく、山下と名乗ったり、大山と名乗ったり、あるいは金と書いてキンと読んだり、ともかくたくさんのキムくんやイさんやパクちゃんと初めて出会うことになる。それまで、日本でキムとして生きている自分は「おれはみんなとは違うんだぞ」という、今思えば大変傲慢な、逆差別的な、一種の歪んだ優越感のようなものを抱え突っ張って生きていたと記憶している。そのまま日本社会のレールに乗っかったその青年は、日本の大企業へ入社する。がむしゃらにもがき20代を働き、東京での生活を謳歌する。
つい生い立ちの話をすると長くなる。しかもおそらく話したいことの1%も書けていない。人生とはなんとも立体的だ。話を戻すと。そんな男が35歳で英国へ家族を連れてやってきたのには訳がある。企業に勤め、家族所帯を持ち、友達や親族に恵まれた自分の生活の中に、なにかがずーっとずーっと失われて行く感覚があった。時間の経過とともに、なにか大きなものが心の中に横たわっていくような、蓄積していくような感覚があった、その蓄積した何かが、染み付いていく怖さがあった。その染みを取らないと、なんだかこの先大変なことになってしまうんじゃないか?と気付きながら、3-4年を過ごした。そんな中、大切な人に出会った。「そういう染みついたなにかに、目を背けることはよくないよ」と、となりでずっと言ってくれる人に出会えた。一緒に暮らして行くうちに、どんどん何かを始めたくなった。旅に出たくなった。安定した、約束された何かを抱えて生きて10年の歳月が過ぎていた。満たされているようで、自分がなにより大切にしていたはずの”情熱”の矛先を失っていた。気づいた時にはもう始めていた。ずーっと、自分の中でひっかかっていたなにか、韓国でも、日本でもない社会で生きてみたい。そう言う環境で、自分が何を感じて、どこまでやっていけるのかを試してみたい。そういう、なにかフタをしていたような気持ちがパチンと解放されて一気に準備を進めた。ぼくの場合、それを実現する手段がたまたま留学となった。
なにを学ぶ?のかがずっと問題だった。キャリアのラダーを考えてビジネス・財務を学ぶひともいれば、専門性を高めるために資格を取りに行く人もいる。自分はどうだろう?これまたフタをしていたものを外すことにした。ずーっと幼い頃から、ぼくの人生のそばに、なかに、前に、後ろに、くっついて離れない”文化”という言葉。この言葉の正体に取り組むことにしよう。思えばずっとこの”文化”が問題なのだ。”文化”ってところでなんなんだろう?なんでそんなにぼくは囚われているのか。そこになにか、自分の人生をどう生きて行くかのヒントがあるに違いない。そんな気持ちで、まず行き着いたのはカルチュラル・スタディーズであり、留学の準備をするとともに、ぼくはずっと英国で1980年代に一度盛り上がりを見せたその領域の本を改めて読み直すとともに大学院へのアプライの準備を進めていた。