1985年のロンドン産業戦略 / London Industrial Strategy in 1985.

ロンドンには両義性がある。比較的富裕層が多いと言われるWestに対し、移民が多く流入し低所得者層が多かったとされる Eastエリア。金融業を中心にキャピタリズムが富を築くそばで、難民や障がい、LGBTQなど社会的に立場が保証されない人々を支えるソーシャルワーカーが懸命に働く。夏は22時まで明るく、冬は16時前に暗くなる。この街に住んで一年が過ぎようとしているが、そんなをくっきりとしたコントラストを生活の端々で目にする。

2020年現在、ロンドンはGreater London Authority(以下、GLA。大ロンドン庁)が自治を担っている。現ロンドン市長はムスリムにして初めて市長になったことで話題をさらったSadiq Khan。労働党の出身。自身はSocial Democrat/社会民主路線と公言している。で、そのKhan氏の前に市長を務めていたのはご存知、現首相で保守党所属のBoris Johnson。ロンドンの街での政治を巡る歴史を見ても、コントラストがくっきり。保守党が政権を掌握しては、労働党が奪還、青が赤に、赤が青に、の交代が変わるがわる行われて来た。二大政党制は英国発祥と言われているが、こうやって重心を動かし続けることで、平和を保っているのか。英国人の議論好きも、こういう二元的な重心の移し方と関連があるに違いない。日本のように、真ん中にグレーを置く現象はなかなか見られない。

2000年にGLAが誕生する前の14年間、ロンドンにはGLAに該当する規模の自治機構は存在しなかった。1986年に、サッチャーがその規模の組織を廃止していたのだ。前身となるGreater London Council(以下、GLC。大ロンドン市)は、バリバリLeftの政治家Ken Livingstoneが要職に就いていて、サッチャーが国政で進める新自由主義路線に真っ向から対抗していたようだ。おそらくだいぶ濃い目のソーシャリストたちが自治体行政についていたのではないかなと憶測する。そんな1985年に(たまさかぼくが生まれた年に)ロンドンの産業戦略レポートがGLCから発刊されていた。クリエーティブ産業の歴史を辿るの中で、装丁の写真やあしらわれたロゴ、レトロな雰囲気におびき寄せられてこの書物に触れることになる。

クリエーティブ産業について、改めてぼくが説明するのは役不足である。とんでもない量の情報を編纂された先人の研究者たちが数多くのレポートにその概念をまとめている。中でもわかりやすいのは、今年から同志社大学で教鞭をとり始めた太下義之さんのレポートだ。

英国の「クリエイティブ産業」政策に関する研究 〜政策におけるクリエイティビティとデザイン〜

一般的にクリエイティブ産業の起こりは先のCultural Entrepreneurshipの投稿でも触れたとおり、1997年のブレア政権下という見方が優勢だ。New Labourを標語に、第3の道を模索した社会民主的路線を取る政権が、経済と文化の両方の成長を実現するために提唱した概念だと理解している。コントラストが明確な英国で、青と赤の間を、右と左の間を模索する中で生まれた第三の道へのトライアルに、多くの人々が期待を寄せたんじゃないか。いまではクリエイティブ産業の概念は、英国から始まりたちまち欧州全域の地方都市たちに広まり、この20年でアジア各国も必ずと言って良いほどその視点を取り入れ、南米やアフリカを始めとする発展途上と称される国々の、地方行政単位の産業振興でも多く耳にする概念となっている。あまりにいろんなシーンで聞かれる言葉だけに、そして自分が活動領域とする産業の概念なだけに、そのルーツを知りたくなった。

London Industrial Strategyの序文に以下のような文章がある。まず「文化の概念をよりWiderにしよう」という記述がある。ダンスやクラシック音楽、オペラや文学に止まらない形で。なるほど、このアイディアのおおもとに、今日の英国における文化の位置付けを見た。いま、英国における文化庁に相当するDCMSは、Department of Digital, Culture, Media and Sports であり、2010年ごろから”Digital” “Sports”までに文化の概念を拡張している。次に、”Electronic form of communication”を前提とした戦略に言及している。まだDigitalと言う言葉を使う前、1985年の時点で、デジタライゼーションに備えるそのアンテナの高さを見た気がして、したたかだなと感じた。

Since the Second World War, state intervention in the cultural sector has largely taken the form of subsidy to the traditional art forms - dance, classical music, opera, and visual arts, theatre, literature and latterly the cinema. This focus on the artist, exhibition site or performance constitutes only one possible strategy for culture. What we deal with here is an alternative strategy and a wider definition of culture - one which takes in a far wider range of what people today experience as culture, on that acknowledges the new electronic forms of communication. (GLC)
— Greater London Council

クリエイティブ産業を理解しようとする時、その根っこにある政治思想はもともとかなりレフトなものであることを知っておく必要があるのではないか。London Industrial Strategyを練った当時の政治家たちが、新自由主義路線を強めていくサッチャーから目をつけられて最終的には組織の解体までされてしまった逸話がそれを立証してくれる。太下さんのレポートにある通り、経済危機脱却のドライビングフォースとして注目を浴びた政策という側面がフォーカスされ、経済成長のための施策というイメージが強くなってしまっているが、そもそもこういうことを考えた人たちは、どうやって経済成長と文化や社会のあり方を一挙に解決できるかを一生懸命考えていたんだろうな、と想像する。

いまの経済産業省が主導する日本のクリエイティブ産業振興にはLondon Industrial StrategyにあるようなDiversityやInclusivenessといったキーワードはあまり見られない。対外政策としての文化産業の輸出がフォーカスだから、当然のことである。ただ、なんだか「文化政策ってそういうことでいいのかな?」と、ぼんやり疑問を抱いていたぼくとしては、このLondonの1985年のレポートに少しのヒントを見た気がしたのでした。

多様なルーツや考えを持った人が集まるロンドンという街で、そのコミュニティ全体をどうやって豊かにしていこうか?を妄想した時、文化産業に経済価値を帯びさせていくアイディアがあった。その地域・コミュニティ自体を豊かにしていこうという考えが、その後の90年代のCreative Cityの議論につながっていくという流れがわかった。

1985年のロンドン産業戦略の中に、クリエイティブ産業のルーツをみたということで、今日はここまで。

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