これからの”大学”の役割とは?

先の投稿に書いたカルチュラルスタディーズはともかく難解である。書物を読み進めていくうちに煙に巻かれるような感覚がある。「何を言ってるんだろう?」と。自分がビジネスの現場に長いこといたからのせいだ。シンプルに、削ぎ落として、誰にでもわかるようにする、そんな仕事の現場で目にするドキュメントとは真逆の性質だ。「その勉強はどうやってキムのキャリアに影響があるの?」なんていう質問がきた日には「直接的にはなんの影響もないと思います」と、いまならようやく答えられる気がする。

おそらくこの世の中には、くっつけていいものとくっつけてはいけないorくっつけなくてそのままにしておいて良いもの、というものがある気がする。もしそうだとすれば、学問とビジネスはそのケースに当てはまるのではないかなと思う。この世界をシンプルに解釈しようとする動きに対して、この世界の複雑性をそのまま残して置こうとするもの。そんな風に見える。ちなみにMBAというものはまた別で、あくまでビジネスのための勉強という位置付けだ。検討したことはあったが、選ばなかった。なんだか、ぼくには違う気がしていた。ビジネスのことは、ビジネスの現場で勉強したい。

先日、ぼくが長きに渡って信頼を置いているコピーライターと話をしていた。彼は短編のCMのスクリプトだけでなく、長編を書けるようになりたいと言った。応援しようと思った。おそらく、短編CMで生活者をクイックかつ効率的に購買へと動かすための筋力とは、また別の能力を磨きたいという、彼の思いを垣間見た気がした。ぼくが学びの場を選んだ理由はそれに近いものがある。究極、ビジネスの目的はビジネスであり、それがいかなる社会性を伴ったプロジェクトだとしても、広告ビジネスである以上はビジネスだ。魅力的なプロジェクトは魅力的な服をたくさん纏っているが、真っ裸にしたらなにが残るかといえば、ビジネスなのである。そのパラダイムにいる限りは、なにか到達できないものがある気がしていた。人間関係も、広がっていかない感覚を覚えていた。もっと深いところまで入っていけるはずなのに、入っていけない感覚があった。この悩みは小手先では変えることはできず、”立場”自体を変えなければいけないと感じていた。

転職や社内異動で新しい自分に巡り会う人もいる。ぼくの場合、日本を出ることも必要だったので海外留学を選んだ。ただし、いい歳になって大学に戻ることにはいくばくかの不安もあった。いまさらキャンパスライフをエンジョイしたいとか、そういうことではないのである。ましてや、こんなにインターネットで必要なすべての情報にアクセスできる時代、大学に行く意味って果たしてあるのか?と。正直、知識を得たいのならおそらく家でこもって、国会図書館にでも通って、ガリ勉をした方が良いだろう。何が得たい?スクリーン上では得られない、友人や仲間との出会い?これは実は世界的に逼迫した課題で、英国の大学(特にサイエンスではなくヒューマニティ/人文科学の分野)は、2008年のリーマンショック以降、政府の緊縮財政のあおりを受けてどこも経営難に陥っている。(ちなみに前述のMBAを擁する大学はその危機を免れている。MBAは、大学経営からすれば重要な収入源なのだ。)そこへ、コロナである。大学機関はいよいよ窮地に立たされた。大学だけではない。教育機関の意義が問われている。オンラインレクチャーの導入により強制的なデジタルシフトが遂げられた。英国では学校に通わずに義務教育家庭を終えることができるホームエデュケーションが急増中のようだ。米国発、一世を風靡している歌手ビリーアイリッシュもホームエデュケーションで学業を終えたという。仕事も学びも、みんなおうちでできちゃいます、のムードなのである。そんな時代に、「大学の意味ってなんだろう?」さらに、相変わらず英国の大学は留学生に対し、なかなかの授業料を設定している。(平気で200万円ほどの年間授業料。)もう一度、「大学の意味ってなんだろう?」。

ぼくの大切な友人ふたりが、ヒントをくれた。

はじめに。韓国で物理学を勉強した後に渡米、政治学のPhDを取得し、いまは日本の大学で教えている超絶アカデミックな友人に「留学の準備してるんだけど、これからの時代の大学の存在ってどんな意味がある?」と質問した時、彼はこう答えた。「新しい知を創造する場所だと思う。特に大学より、大学院機関は。」ごもっともである。創造の場所なのである。ぼくは大学を”受動的”に学ぶ場所だとまだ思っていた。本当にダメな学生である。日本の教育の賜物。受け身。今回、Goldsmithsで学んで思うことだが、学びとはCreativeなプロセスだ。答えのない問題に対して、自分で問いを立て、それがあっているかどうかわからないけれど、答えを出そうともがく行為だ。35歳までその意味をわかっていなかった。AcademismはCreativeなのだ。知らなかった。今ここにない答えを出す場なのだ。だとすれば、こういうCreativeな場所は雲がかって見えるこれからの時代、必要だと思う。未開の領域に問いを立て、答えを出すことに、無数のチャレンジが許される場所。若い人たちだけのものではないはずだ。”新しい知を創造する場所”は、社会にとって必要だと思う。

次に。文化人類学者でいまはとある日系企業に勤める友人とZoomで話していた時の。「大学で学ぶことの意味ってなんですか?」と、直球で聞いたら、直球で返してくれた。「どうやって生きて行くかを、考えるってことじゃない?」当たり前のようで、これが実はなかなかじっくりできないのが世の中だ。人生の節目節目で、やりたいけれどなかなか日々に追われてできない。どうやって生きていけば良いのかを考える前に、日々に追われる。だとすれば、これを許してくれる場所は重要だ。自分の場合、予想外にして父になったタイミングでこの機会を設定できた。この世の中は、こんなにも複雑にできていることをちゃんと捉えて、その上でこれからどうやって生きるかを考える。それで良いのだ。だとすれば、多いに大学には意味がある。キャンパスがなくても、大学的な時間の過ごし方は、人間にとって大切だ。子育てをしながら学んでみて、そんな風に思うようになった。

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“カルチュラルアントレプレナーシップ/ Cultural Entrepreneurship“とはなにか?

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どうして”文化”を学びの対象に選んだのか。