複数性、アイデンティティ、文化変容。

Pluralism / 複数性

自分が考えている対象は「複数性」なのかな?と思うようになってきた。ダイバーシティというカタカナ語はもうだいぶ使い古されて意味を背負いすぎてしまった気がして、気分転換したいだけかもしれない。この際、自分が関心を抱いている対象は「複数性の統治です」と、言ってみる。

Identity / アイデンティティ

たとえば、自分の中に複数の民族的ルーツを持つ男がいる。たとえば、自分の中に複数の性的指向をもつ女がいる。たとえば、複数の職業(本業と副業)を掛け持つひとがいる。自分の中に、複数の自分がいる。それは珍しいことではない。かくいう自分も、韓国人であること、とはいえほぼ日本人みたいだってこと、父親であること、ビジネスマンであること、学生であることなど、入り乱れている。

自分の中の複数性とどう折り合いをつけるか。これは時にエネルギーを必要とする。放っておければそのまま自然と調和に向かうかもしれない。しかし、社会は案外そうでもない。ひとつにしておかないとダメとされたり、面倒な結末になることが結構ある。二重国籍や夫婦別姓の不容認や副業規制が呼ぶ議論はどれも、個人の複数性を制限する節があるからではと思う。

対処法はいろいろある。複数のうちのひとつの自分を犠牲にしたり、複数のうちのひとつの自分に蓋をして生きるケースもある。かと思えば、器用にすべての要素を共存させているケースを目にすることもある。

複数性とどう上手に付き合って行くか?二つの視点から考えてみる。

ひとつめ。個人の視点から。「いろんな自分をメンテナンスしてあげましょう」ということで、定期的に各種の自分に水やりをし、それぞれの存在を認めてあげる。たとえば、与えられた言語忘れないようにすること、海外で暮らしても着物の着付けを忘れないようにすること、心の庭にいろんな花が咲く状態を保つこと。水やり体制ばっちりです!ひとりでできれば言うことなし。統合をめざす個人のできあがり。これができた人は、次の視点に移ると良い。

ふたつめ。社会の視点から。複数の自分が存在することで苦しい思いをしたり悩んだりする人がいる。もしかするとそんな人は、庭の水やりの頻度を変えたり、雑草を抜いたりすることで改善できるかもしれない。社会にはそのための活動が数多く存在している。相談所を開く人やカウンセリングを提供する人のように、枯れそうな苗木に励ましの声をかけては、個人を支える活動がある。メディアというのも、頑張って咲く花を取材し、その勇気を描写し、みな自分らしい花を咲かせるようにと周囲を鼓舞する役割を担っている。音楽にも映画にもそういう側面がある。複雑な感情を抱えていても大丈夫だ、そのままでいい。そんなふうにそっと声をかけてくれる作品をいくつも目にして来た。文化や芸術が担う社会的役割のひとつだと思う。

アイデンティティというものは、環境やその時々の状況によって流動的に変わる。また、どの視点から捉えるかによっても捉え方は異なる。アイデンティティという禅問答のような問いを、何を目的にどう扱えばよいのだろうか。この問題が重要な感覚はあっても捉え方の緒がなかなかない。だから、動きながら考えることにした。こうした話題についての対話を快諾してくれた10代/20代の男女数名と話を重ねていくことにした。みな、日本以外のルーツを自分の中に有している。

Portrait of Japan / ポートレートオブジャパン

すると、少しだけ見えてきた。個人のアイデンティティを考えることは、社会全体の健康を考えることにつながっている。「健康」から紐解くと、答えのないアイデンティティの諸問題への接近法を具体化していく糸口が見えた。水やりがうまく運用され、庭に多様な草木が生い茂る人は「心が健康」なのかもしれない。一方で、世の中には心が不健康な人がたくさんいる。アイデンティティの問題とは、メンタル・ウェルビーイングの話なのか。せっかく生きているなら、なるべく心が健康な状態、そして社会も健康な状態を目指した方が良くないか?そう考えるようになった。

個人のメンタル・ウェルビーイングを考え、同時に社会全体の健康のことを考える。そんな拡張を見出せるアイデンティティの問題は面白い。さらに面白い発見は、自分の中の複数生やアイデンティティを考える際に使われる分析ツールたちが、学際的に全く異なる問題系でも転用できる点にあった。たとえば、以下に紹介する「文化変容」のフレームワークは、多国籍企業の組織マネジメントや、企業買収の後のPMIと呼ばれる企業文化融合のケースでも参照されている。国家、企業、地域社会、どの場面においても、複数性をどう統治していくかという視点において、文化にまつわる研究には大きなヒントがたくさんある。

Acculturation / 文化変容

心の中に複数の自分がいて、その複数の自分が絶えず近づき、遠のき、動き続けているということ。これは、自分の中で起こる異文化コミュニケーションであると理解するようになった。この文化とあの文化の出会い、そのコミュニケーション。「文化」という言葉を「違い」に置き換えてみるとわかる。あの文化 = 違い とこの文化 = 違い が接触した時、ひとはどんな心理的な変化を経験し、社会の側にはどんな反応があるのか。か。J.W.Berry(以下、ベリー)は移民心理研究(英:Cross-Cultural Psychology)の第一人者で、以下の著名な類型化を提示した。

清書してみた。文化変容の4モデル。

清書してみた。文化変容の4モデル

1- 統合:自文化を保持しつつ、異文化も受け入れる状態

2- 同化:自文化の保持は消極的だが、異文化を受け入れる状態

3- 分離:異文化を受け入れることに消極的で、自文化を保持する世帯

4- 周縁化:自文化にも異文化にも属せなくなってしまう状態

文化人類学者は異なる生活様式をもつ部族間の出会いおいて、彼らがどのように自文化と異文化との関係性を紡いでいるのかを分析し規則を見出してきた。このモデルを提示したベリーに大感謝である。この類型を知った時、わたしがずっと考えてきたことが整理されていて驚いたことを覚えている。日本で「キム」という名前で生きてきたなかで「辛い思いも結構したでしょう?」と聞かれることが何度かあった。楽観的な性格だからかあまりそうした辛い記憶がないのだが、それ以上に自分が気になっていたのは、その質問の裏にはあたかも日本社会が同化や分離を前提としている社会だと言うことに何の疑いも持たないようなその姿勢にあるのだなと、ベリーが提示してくれた類型化を知って以降、解釈するようになった。

わたしの場合、日本と韓国の両文化に対する高い肯定の意識があった。それには、双方の言語を習得できた経験が大きい。実際、ベリーと同様に文化変容についての研究で著名な功績を残しているシューマンの研究によれば、スムーズな第二言語の習得のためには「統合」のフェーズにいることが望ましいとされているという。

自分が「統合」に近い意識を持てたことに感謝している。本当に統合的状況にいたかどうかはわからない。幻想かもしれない。大事なのは事実がどうであったかよりも「統合に向かう意識」があった点にある。小学校の音楽の授業で「アリランをみんなに紹介して」と、そう機会をくれた町田先生のことが頭に浮かぶ。統合を信じる教育者の存在あってこその、わたしの意識だったと、いまになって振り返る。

そんな意識をもつ一方で、自分と異なる境遇で育ったコリアンの友人たちの内面にいつも関心があった。10代後半、夜な夜な彼らと会話を重ねた。アイデンティティをめぐる話題は、心の奥深くを覗く作業ゆえにお酒も進み、世を明かすことも珍しくなかった。通名を名乗ることを強制されていたらどうなっていただろうか?いわゆる民族教育を受けていたらどうなっていただろうか?「同化」や「分離」といった象限の意識に関心があったのかもしれない。それは若かりし頃の純粋な興味であり、何か重い歴史を背負ってきたように話す友人たちの背景をわたしも知りたい、そういう意識だったのだといま振り返る。

時は流れ、みな社会人になり、仕事に忙しく、多くは親となり、チャミスル杯を交わしながらアイデンティティ談義することはほぼなくなった。わたしも結婚式、夫婦のもとに新しい命を授かった。みるみる育ちゆく息子はいまや小さな怪獣のようにこの英国の地を暴れまわっている。そんな彼が生まれて1ヶ月も満たない頃のこと、名字をどうするかで、妻が泣いた日があった。中央線の駅構内で、韓国語の名字にするか、日本語の名字にするかの話をしていた。キムにするか、佐藤にするか。このとんでもなくポピュラーな名字ふたつをめぐって。

「便宜上、ひとつにした方が良い」と、わたしは言った。将来待つ様々な役所手続きや、日本社会で待つ不便が想像できたので賢明な判断をしているつもりだった。しかし、妻は怪訝な表情を続け、なかなか意見が整合せず、ついにふとした瞬間に涙をこぼした。息子が決めることなのに、なぜ親が勝手にそれを先に決めなければならないのか、彼女はそれが納得いかない様子だった。悔しがっていた。便宜上の理由で、何かが犠牲になるのはおかしいし、息子当人の意見なしに決めるのはおかしいという明確な考えを持っていた。リスクや作業の煩雑さ回避を優先する父親なりたての責任感のような同化志向は、妻の涙の前に敗れ去った。しばらくこの問題は置いておくことにした。

いまは俯瞰して見える。日本の制度がそうだからそうしようというのは、果たして合理的な判断だろうか?同化や分離を強いられてきた無数の人たちがいたことは歴史的にほぼ間違い。そうしたひとびとの悔しさを想像している。生存戦略として、そういった同化や分離を飲み込んできたひとたちの心中を想像している。いまはどうだろう。世界に目を向けたらどうだろう。メディアの環境はどうだろう。英国に来て、新しい世界を見て、新しい視点を獲得した。だからこそ、いまになってあの頃、自分が潰しかねなかった複数性のことを思い返している。些細なことのようで、この社会を生きるうえで大切な思考の要素が詰まっている。キムと佐藤の両方を持って生きる可能性のことを尊く思う。英国に来る前から、そういうなにか本能的な感覚に長けている妻のことを心から尊敬している。

話をベリーに戻す。ベリーは、複数性をどう扱っていくかを規定すには、受け入れ側の社会の役割も重要であると説いた。先に述べた異文化接触の個人の4モデルと鏡になる、社会の側の4モデルが以下である。

頻出される図解を清書してみた。もっといろんなデザインがありそう。ヘチマみたいになってしまった。

頻出される図解を清書してみた。もっといろんなデザインがありそう。ヘチマみたいになってしまった

1- 多文化:複数の言語や文化を認める。参入者が持つ文化も積極的に受け入れようとする

2- 同化:その社会の言語や文化を尊重することを求める

3- 隔離:住む地域や職業などを制限して両者の接触を少なくする

4- 周縁化:同化や隔離が失敗して、孤立した人が陥る状況

結局、自分がそうであったように、社会の側に複数性を許容する準備がなければ、いとも簡単にその芽は摘まれてしまう。大丈夫、大丈夫、意識して頑張れば大丈夫、と思っていても考えだけでは長続きしない。制度が必要だ。知らず知らずのうちに、同化や隔離に回帰していく行くケースはたくさん見てきた気がする。

統合の現実は甘くない。努力なしに、統合的な状況は維持されえない。英国に来て間も無く出会ったキプロス移民2世の友人がふと漏らした発言がある。「実はキプロスのことをほとんど知らない。まず、言葉がわからない。こんなんでいいのかな?と思うことは何度かあった」「漠然とした自分の自信のなさは、こうした背景につながっているかも?そう疑ったこともある」こうしたエピソードは引っかかった。リアリティがあったし、感覚的に理解できる気がした。自分が一体、どこから来たのかについての不確実さ。根っこがどこから生えているのか、たとえ見えなくとも、手応えをもって感じられさえすればよい程度のもの。思い切り、その枝葉を自由に伸ばすためには。

統合に向かって大量に移民を受け入れ(今月末にBrexitを控え)、来年からは流入移民の規制に入る英国。そんな国でみたひとつの「周縁化」に近い事例かもしれない。統合に向かう社会のその先には「二兎という複数性を追うものは一兎も得ず」の生々しいリアリティが待っているのかもしれない、とまで考えた。統合維持のためには、それだけの文化的複数生を維持するための経済力が必要になるのだろうか?と、わたしの問いは続く。


こんなことをこの10月・11月、考えていた。そして自分の小さな動機を真ん中に、アイデンティティについての会話記録をポッドキャストに保存してみた。1人目のヤスミンからインタビューを始め、いまは6人目のストーンまで出会った。ブライトンからダブリンを経由して、ミシガンと恵比寿寄りただいま京都。改めて、出演してくれたやすみん、しゅん、れい、いあん、かい、そしてすとーんに感謝。わがままに付き合ってくれて本当にありがとう。バトンがここまで続いていることに不思議な手応えを感じています。

自信を持って聞いてもらうほどの編集・パッケージングはできていない。広告畑にいたものとして品質は失格。ただ、誰かのお化粧にばかり時間を費やす自分の仕事の仕方から脱皮する必要があった。自分の信じる大切な価値に忠実にものを作ってみたかった。すると、たくさんの発見(副産物!)があった。ここから工夫を重ねていきます。

自分のWEBで始めたのは便宜上の理由で、β版・プロトタイプです。自分の手を離れて存続できるか、絶賛各者と会話をしています。コンテンツ制作、技術面、企画、出演者 etc….幅広くフィードバックなりアドバイスなり大歓迎です。 もし少しでも興味や関心がある方は、どうぞ気軽にお問い合わせください!

複数性から考え始め、アイデンティティ、そして文化変容。最後にプロジェクトのちょっとした紹介まで。

*Reference

John H. Schumann (1986) Research on the acculturation model for second language acquisition, Journal of Multilingual and Multicultural Development, 7:5, 379-392, DOI: 10.1080/01434632.1986.9994254

Sam, D. L. and Berry, J. W. (2010) ‘Acculturation: When Individuals and Groups of Different Cultural Backgrounds Meet’, Perspectives on Psychological Science, 5(4), pp. 472–481. doi: 10.1177/1745691610373075.

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