「文化資本」の話。おそらく、お金で買えないものの話。
10年以上の広告代理店でのキャリアのうち、後半4年間はアーティストや文化に携わる方々と多くの仕事をともにした。長年のお付き合いを経て、世界的に活躍する音楽家の方に「わたしの友人です」と言ってもらえた時、心から喜びを感じたことを鮮明に覚えている。仕事から始まったはずの関係が友情に変わった時、言い表せぬ心の潤いがあった。この時わたしが得たものはなんだったのか。お金では辿り着けない何かに触れた感覚があった。
そんな喜びのエピソードとは裏腹に、自分の名前ではなく会社の名前に「さん」を付けて「●●さん」と呼ばれる時、ずっと居心地の悪さを感じてきた。その正体はなんだったのか。お金でしかつながっていない感覚というか、金聖源という個人の社会関係資本や文化資本を無視して、背後にあるメディア会社の「経済資本」で自分を表現された事実が、自分には耐えがたかった。
冒頭の事例のように、お金の関係はきっかけにすぎず、友情や愛情へと発展していくケース。（一部の恋から愛、もそう？）最近になってそれは、ブルデューの定義に従うところの「経済資本」が「社会関係資本」や「文化資本」に変化する過程だったのだと思うようになった。
欧州社会学の基礎を成す資本の3形態を説いたフランスの社会学者、ピエール・ブルデューの定義に従えば、世の中には3つの資本が存在する。”Economic Capital / 経済資本” ”Social Capital / 社会関係資本” “Cultural Capital / 文化資本”である。
ひとつめの経済資本は、つまりお金の話である。わたしたちが銀行に貯蓄するお金や、各種形態で運用されるお金の話。ふたつめの社会関係資本は、ざっくり言えば人間関係の話。日頃、社会的存在として生きる中で築く他者とのつながりの話。みっつめの文化資本。これが定義しづらく、ネットの海には無数の定義が転がる。定義の難解さゆえに？ここまでの議論を産んだブルデューはすごい。
文化資本を理解するにはわたしには役不足すぎるため、内田樹さんの記事を参照されたい。
さらにブルデューは文化資本を3つに分類している。 ”1- Objectified / 客体化された” “2- Institutionalised / 制度化された” “3- Embodied / 身体化された” 文化資本、の3つである。好きなアート作品を買ったり、お気に入りの雑誌を購読すること。それは1の客体化された文化資本をお金で買う行為だ。あるいは、いまわたしが文化・カルチャー領域で留学しているように、学校という制度を利用して得ようとしているのは2の「制度化された文化資本」であると言える。もっとも立体的で、複雑で、時に可視化しづらいのは3。この3が肝なのである。結局のところ「お金では買えない」正体なのである。自分に当てはめて言えば、日本との生活習慣を熟知していること、ハングルが話せること、日本の教育課程と韓国の両親に学んだこと、幼い頃から映画と音楽をたくさん吸い込んで育たこと、など。こうした蓄積が成す行動規範のようなものがお金で買えない資本の姿であり、実体験に基づいて言えばいつだって良い人間関係やコミュニティを築かせてくれたのは気この類の資本を介した出会いだった。
文化資本についての議論には偏見を助長するような見方がなされやすい。「不平等じゃん。恵まれた環境でしか、文化資本は与えられないではないか」と。一見、現実世界を捉えた鋭い批判のように聞こえる。わたしもそうだった。しかし、わたしはそれに反論するようになった。どんな生い立ちや背景を背負った人間にも文化資本は育まれる。そう捉える見方を広げなければ、わたしたち人間の文化は前に進まない。文化の本質が、個々に与えられた「違い」だとすれば、たとえそれがどんな形態であれ、すべての存在がこの文化資本的を備え生まれてきているではないか。旧来の、貴族やエリートにのみ授けられた特権的文化という概念は形を変え、いまでは多様な人間の生き方それぞれに文化性やカルチャーを見出すところまで、文化の概念は拡張してきたではないか。わたしたちの未来を考えた時、文化資本を一部の特権階級の占有物に閉ざす考えは、明るい見方ではないのでやめた方が良いと思う。
文化資本はお金で買えるものではない特性をもつ一方で、皮肉なことにも巨大資本はいつも文化資本を招き入れることに必死だ。新しい都市開発プロジェクトでは、そんな現象をよく目の当たりにする。ロンドンは東にHackney Wickというエリアがある。2012年のロンドン五輪でスタジアムが作られた地区で、近年再開発が猛スピードで進む。かつては所属階層で言えばあまり高くない移民労働者たちが多く暮らす地域で、街の壁にはずらりとグラフィティが並ぶ。治安はあまり良くなかったであろうその街には、大手デベロッパーの参入により建設されたビルやマンションの傍に小さなカフェやレストランが多く立ち並ぶ。一見、文化度の高いおしゃれなお店たちに見える。しかし、お店のひとひひとつによく目を凝らして見ると、食事はどこもピザ、飲み物はクラフトビールといった具合に、参入リスクの低いメニューばかりで均質化され、店ごとの特性がない。個性がないのだ。違いがない。個々のビジネスオーナーはこの街に可能性を感じて集まったのだろうが、最終目的がおそらく経済資本なのだ。経済資本の世界では合理的であることが勝ちで、そんな人びとの集団が目指すアイディアは似通ったものとなり多様性がない。だから、違いを埋め合うような活動も生まれない。コミュニティになっていないのだ。この地を愛しているとか、この街をつくろうとか、そういう愛や心に根ざして育まれる文化資本が起動する街の発展が進んでいないように見えた。
都市開発に限らず、広告という世界も経済資本の枠に閉じこもりがちな傾向がある。社会性の高いメッセージ、文化度の深いコミュニケーションに挑戦するクリエイティブ作品はたくさんあるが、広告の誕生の歴史から明らかなようにそれは営利追求の企業のための筋力だったわけであり、文化資本や社会関係資本に立脚した戦略やコミュニケーションプランの立案はごく限られた視座の高いつくり手だけになせる領域になっていると感じる。最近、無印良品が公開した掃除/Cleaning をテーマにしたキャンペーン動画を見て、友人のCMプランナーは「こういう優れた作品が広告代理店からは生まれないのが悲しいよね」と言った。それを聞いた時、納得できた。広告代理店は、クライアントの広告予算という経済資本を前提に企業メッセージを考案するため、そういう宿命にある。世の中には、金稼ぎとはまったく別軸でものを捉え、考え、実践して生きる人たちがいるということをどれだけ想像できるか？知らない世界があるということを、どれだけ知っているか？アンテナを高く張っていなければ、経済資本主導の競合ピッチという荒波の中で他の視点に目を向けるほどの余裕が許されない。
かつて、著名な音楽家の方に”Keep your passion”と直筆のメッセージをもらったことがあった。情熱がなにより大事なのは知っているつもりだった。いまではこの「情熱」がどうして大事なのか、文化資本の観点から理解するようになった。この世界には文化資本という非合理的でおよそ金額換算などできないエネルギーが存在し、それは時にお金を吸い込み、生み出し、はたまた時には世界経済の洗浄作用すら担っているということ。とある雑誌の元編集長が以前教えてくれた中国の言い伝えがあるそうだ。「経済がうまく回らなくなったら、文化を刺激しろ」。
お金では買えない、文化資本の話。