なぜ動物を観るのか?

 妻と息子が、近所のみかんの樹にアオムシを見つけた。そこで摘んだ葉と、そのアオムシがさなぎとして宿れる支え木をカゴに入れ、家族で眺めている。毎日大量の排泄と脱皮を繰り返し、姿を変えていくその様子に驚かされる。人間もアオムシも、幼少期ないしは幼虫期の発育は目覚ましい。

 クリアガラス越しに生命を覗く自分に気づき、四編のオムニバス構成の映画「ジョン・バージャーと4つの季節」内のふたつめのエピソードを頭に浮かべている。ジョン・バージャー著「見るということ」収録のエッセイ「なぜ動物を観るのか?」をめぐる20分ほどの短編映像作品「春」(原題 : SPRING)である。

ジョン・バージャーと4つの季節

映画「ジョン・バージャーと4つの季節」第二編「春」より

 動物園に息子を連れ、柵の外からシロクマを、サイを、ワニを眺める都度、ふと頭をよぎる複雑な感情。総論「楽しかったね」とまとめて帰路につくも「彼らはずっとあの小屋で生きるのだろうか」という後ろめたさは消えない。自然とはなにで、動物とはなんであるか、都会育ちで野生での原体験に乏しく、自然との対峙に関して微塵の説明力ももたぬ父親が手っ取り早く子どもに与えられる機会が動物園であるが、訪問のたびに動物を観る行為について考えが巡る。彼ら彼女ら動物は、檻や冊という世界観のまま生涯を終えるのだろうか。ほぼ確実なはずで、ただ信じがたい事実を払拭できずに帰宅する。

 小学生の頃、そういえば飼育の魅力に取り憑かれた。高学年時、飼育委員に没頭し毎朝キャベツと人参の欠片を手に家を出て、誰よりも早く校庭脇の飼育小屋でうさぎとの時間を独り占めした。自分より弱い存在、力をもたない動物との言葉なしのやりとりに、当時のわたしは何を見出していたのか。道具をもつ人間という立場からの優越感に近いものか、ないしは、力を行使できる立場であることに自覚的であるがゆえ、撫でることでその罪を拭いさりたかったのか。回想しては、ないまぜであったような感情を思い出す。中学進学後、今度は自宅でうさぎを飼い始めるわけだが、敬虔なキリスト教信徒の母は時折うさぎに向け祈りを捧げていた。「友達とも家族からも離れたあなたの心が病むことがありませんように」キリストの教えには、人間中心主義への批判があったのか?それとも母自身の想いだったのか?好都合な人間は、それでもなお動物を愛でるのか。なぜ人はケージのなかのうさぎを、カゴの中のアオムシを眺めるのか。なぜ動物を観るのか?

映画「ジョン・バージャーと4つの季節」第二編「春」より

 ジョン・バージャーは美術批評の金字塔と呼ばれる”Ways of Seeing”(邦題:「イメージ」)において、男性を中心した社会構造内において鑑賞者が絵画へ投げかけるまなざし(male gaze)を批判した。「第七の男」では、ある移民労働者の目線から資本主義の構造批判を展開した。もつもの、もたざる者のあいだで、バージャーはいつも目の前の現実を再考させる。そのアプローチの延長線上に、「人間」と「動物」の関係性への考察があった。言語という道具をもたぬ動物を愛玩し、時にその存在を食しすらする人間中心の世界観を批判した。「農夫は自分の豚を可愛がり(そして)それを喜んで塩漬けにする」。この文章が “そして” で接続されることに着目した。

 映画をご覧頂ければわかるのだが、第二編で監督を務めたクリストファーは編集のさなか家族を亡くす。わたしがいま進めている映画の配給作業のさなかにも、多大な力を貸してくれた友人の愛すべき存在が、ペットが、亡くなった。バージャーいわく、動物と人間との関係性はいかなる人間同士の関係とも異なる違うという。なぜなら、動物が人間にもたらす交わりは「人間種が元来持ち合わせている”孤独”に向けられた親交」だからであるという。

 動物が人間へ差し出す暖かさや思い出は「人類に予め備わった”孤独”に向けられている」という表現が、頭からずっと離れない。太古の昔から人間と動物のあいだには、そんな絆があったのか。ゆえに、その共存相手を失ったことへの悲哀は深い。ガラちんの冥福を祈る。そして、わたしの友人の大きな喪失の痛みが、時間の経過とともに少しでも早く癒えますように。

息子より妻が夢中になった我が家のアオムシ

 アオムシを眺めながら妻がこぼした。「カブトムシの成虫を飼うのはつらいな」人間の飼育が動物にとって、カゴという世界における死へのカウントダウンだったなら、それはあまりに辛い。それなら成虫する瞬間、さなぎから孵り羽を広げ飛び立つ瞬間に野に放つのなら、罪は軽くなるのか?わからない。なぜ動物を観るのか?なぜ、カゴのなかのアオムシを眺めるのか?なぜ動物を観るのか?

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